Back to Top

Top Timetable Message FMPiPiロゴ Personality Sponsor Link


東濃見てある記 放送記録日記

東濃地域の自然や文化を紹介する東濃見てある記
    誰かと出会う    知らない事を知る    新しい場所に出会う 
東濃地域周辺の気づかない自然、素晴らしい文化を紹介しています。

放送日:毎週日曜11時10分〜 提供:東濃信用金庫




     

1月4日(日)放送   岩村城 前編

岩村城は奈良県にある高取城(たかとりじょう) 岡山県にある松山城と並ぶ
日本三大山城の一つに数えられている名城です。
岩村城は江戸諸藩の府城の中で最も高い標高717mに築かれ
高低差180mと天嶮の地を旨みに利用した要害堅固な山城です。

。 今回は岩村町が、なぜ女城主の町と呼ばれるようになったのか歴史を紐解きました。
岩村城は交通の要所であり、軍事的にもとても需要な位置にありました。

その事に 織田信長の父・織田信秀もいち早く気づき
遠山氏最後の岩村城主 遠山 景任に妹のおつやを婿入りさせました。

1571年に遠山景任氏が病気により死去
城主を失っては敵に攻められるため 遠山景任氏の妻おつやは
 織田信長の5男である織田勝長養子として迎え城主としました。
しかし、勝長は当時6歳だったため 城主として振舞う事が出来ず
実質 おつやが女城主として差配(さはい)を振るうことになりました。

この おつやが女城主になった出来事
これが岩村町が女城主の町と呼ばれる起源になった出来事です。
ちなみにおつやは絶世の美女だったそうですよ。

翌年1572年 また 秋山信友が岩村城を攻めにきました。
今回も、信友は堅固(けんご)に守られた岩村城を中々落城させる事が出来ませんでした。
戦は長期戦になり、このままでは厳しいと思った信友は考えました。
なんと信友は、おつやに和議を申し入れると同時に、婚姻を求めたのです。
おつやは悩みました。 
この戦で、城下町は多大な被害を受けてしまい、おつやは大変心を痛めていたため
 これ以上戦を長引かせたくなかったのです。 そしておつやは苦渋の決断を下しました。
領民と家臣(かしん)を守る事を条件に開城 そして婚姻すると。

この戦から、城主は秋山信友へと変わり 織田勝長は人質として甲斐、現在の山梨県へと送られました。 その事を知った織田信長は激怒します。
信長はすぐにでも岩村城を攻め落としにかかりたかったんですが、
武田信玄の力が強く 近畿戦略に追われていたため諦めます。

しかし1575年 信長は長篠の戦で武田軍に圧勝します。 この戦を機に信長は 嫡男の織田信忠を大将とおき、岩村城奪還を謀ります。

しかし難攻不落の岩村城は織田軍率いても中々攻めきれる事が出来なかったのです。
そこで信忠は長期戦に出ます。 兵糧攻めをし、食料や物資を絶ち 降伏するのを待ちました。

しかし それでも岩村城は開城しなかったのです。 なかなか落ちない岩村城に業を煮やした信長は、 自ら指揮をとる事にし和議を申し入れました。  「叔母の城の城兵にて 兵火(へいか)にさらすのは忍びない。」 と… これに対して信友とおつやは和議を結び、城を開けました。

ところが信長は秋山信友以下、城将を皆殺しにし おつやも極刑・逆磔刑(さかさばっつけ)に処す事にしました。 初めから信長は全員生かす気はなかったのです。

この仕打ちに おつやは 「敵方であった秋山信友は開城に際し約束を守ったのに、 身内である信長は和議の約束を反故にするのか。」 と嘆き、 逆磔刑に処されている際  「かかる非道のふるまい わらわがその罪を赦(ゆる)すとも天が赦すまじ。 追っつけ因果はめぐりて 苦しき死に遭うべきよ。」と、 怨嗟(えんさ)の声をあげながら泣き そして命を落としました。

おつやがした 城主としてのふるまい 決して本位では無かった2度の結婚 そして強く凛々しい生き方が 今でも岩村が女城主の町と呼ばれる由縁なんですね。
【上記は色々な資料を元にスタッフが解釈しまとめました。
資料事に違う事が書かれているため正確な情報かは分かりません。】

(写真は城内の石碑です。秋は紅葉、春は桜が楽しめる素晴らしい場所です。)

岩村城 



 〒509-7403
岐阜県恵那市岩村町城山
   

岩村城を登るのに自信が無い人は
車で本丸近くまで来る事も可能ですので
本丸からの絶景だけでも
ぜひ見に行って見てください!







会社概要 アクセス 番組審議会 放送番組編集基準 プライバシーポリシー HOME
FMPiPiロゴ
Copyright(C)1999 FM TAJIMI Co., Ltd. All rights reserved.